東日本大震災3年を迎え、被災された方々に心からお見舞い申し上げます。
私がど真ん中で被災した、阪神淡路大震災の死者が6434名、東日本大震災の死者が15884名。
どちらが酷かった、マシだったという話ではありません。
数の多寡など何の意味もなく、誤解を招く言い方かもしれませんが、他人の被害一人と身内など身近な被害一人とでは天地の差があります。
大事な人を失った方は、他の何万人が助かったとしても、その悲しみは最大級でしかないですよね。
つまりその最大級の悲しみを受けた人がそれぞれ、6434件、15884件の何倍かあったという重い事実を、これからも風化させずに、語り継いでいかなくてはいけないと思います。
ビートたけしが震災に対してコメントを寄せているのですが、実に的を得たいいことを言っています。
一部引用して紹介します。
それは普段日本人がいかに「死」を見て見ぬふりしてきたかという証拠だよ。
海の向こうで内戦やテロが起こってどんなに人が死んだって、国内で毎年3万人の自殺者が出ていたって、ほとんどの人は深く考えもしないし、悲しまなかった。
「当事者」になって死と恐怖を実感して初めて、心からその重さがわかるんだよ。
「当事者」でなければ、本当の重さはわからないし、当事者並みの理解を求めることは無理です。
自分が被災してこれはよくわかりましたし、だからといって他人を「慈悲がない」と責めるのは何か違うということがわかりました。
「当事者」でなければ、事件は風化していきます。
それはもう仕方が無い話で、だからこそ「当事者」は風化させないように、他人からくどいと思われ様が語り続けなければなりません。
それはもう逆に、社会的使命のようにも思えます。
こじつけのようになりますが、ベンゾジアゼピンの常用料依存の問題、断薬による辛い離脱症状について、問題提起を続けることも同様に感じていて。
「当事者」でなければ「なに?それ?」ってなもので、それで当たり前だと思いますが。
レベルは違っても、辛かった「当事者」が語らねば、その問題は風化していき、「なかったこと」になってしまいます。
色々なやり方があると思いますが、「当事者」の方はぜひ一緒に声をあげてくださいね。
ビートたけしのコメントで、もう一つ、なるほどと感じる記述がありました。
よく「被災地にも笑いを」なんて言うヤツがいるけれど、今まさに苦しみの渦中にある人を笑いで励まそうなんてのは、戯れ言でしかない。
しっかりメシが食えて、安らかに眠れる場所があって、人間は初めて心から笑えるんだ。
悲しいけど、目の前に死がチラついてる時には、芸術や演芸なんてのはどうだっていいんだよ。
断薬の初期、離脱症状が酷ければ、大抵の人が、寝られない、食べられないで苦しみます。
それは「産みの苦しみ」で、良くなるために確実に通らなければいけないステップです。
そこを通らねば、次の段階である「笑い」は得られませんし、いきなりそこを求めても無理です。
生きるための収入はどうするの?、俺の人生はどうなるんだ?
心配はつきませんが、離脱症状に苦しむ初期段階では、「安心して寝られること」「安心して食べられること」
これを回復させることが第一優先の仕事です。
規則正しい生活がいいなんて医者は言いますが、個人的経験では、寝られる時に寝て、食べられる時に食べる。
体力を回復することにのみ、全力を尽くせばいいのです。
焦るなと言っても難しいですが、今、しなければならないことは何か?
できることを一つ一つ、こなしていきましょう。
被災でも、闘病でも、
苦しみを抱えて、生きる上で次のステップに進もうとするアクションは、実は一緒だと思います。
私がど真ん中で被災した、阪神淡路大震災の死者が6434名、東日本大震災の死者が15884名。
どちらが酷かった、マシだったという話ではありません。
数の多寡など何の意味もなく、誤解を招く言い方かもしれませんが、他人の被害一人と身内など身近な被害一人とでは天地の差があります。
大事な人を失った方は、他の何万人が助かったとしても、その悲しみは最大級でしかないですよね。
つまりその最大級の悲しみを受けた人がそれぞれ、6434件、15884件の何倍かあったという重い事実を、これからも風化させずに、語り継いでいかなくてはいけないと思います。
ビートたけしが震災に対してコメントを寄せているのですが、実に的を得たいいことを言っています。
一部引用して紹介します。
それは普段日本人がいかに「死」を見て見ぬふりしてきたかという証拠だよ。
海の向こうで内戦やテロが起こってどんなに人が死んだって、国内で毎年3万人の自殺者が出ていたって、ほとんどの人は深く考えもしないし、悲しまなかった。
「当事者」になって死と恐怖を実感して初めて、心からその重さがわかるんだよ。
「当事者」でなければ、本当の重さはわからないし、当事者並みの理解を求めることは無理です。
自分が被災してこれはよくわかりましたし、だからといって他人を「慈悲がない」と責めるのは何か違うということがわかりました。
「当事者」でなければ、事件は風化していきます。
それはもう仕方が無い話で、だからこそ「当事者」は風化させないように、他人からくどいと思われ様が語り続けなければなりません。
それはもう逆に、社会的使命のようにも思えます。
こじつけのようになりますが、ベンゾジアゼピンの常用料依存の問題、断薬による辛い離脱症状について、問題提起を続けることも同様に感じていて。
「当事者」でなければ「なに?それ?」ってなもので、それで当たり前だと思いますが。
レベルは違っても、辛かった「当事者」が語らねば、その問題は風化していき、「なかったこと」になってしまいます。
色々なやり方があると思いますが、「当事者」の方はぜひ一緒に声をあげてくださいね。
ビートたけしのコメントで、もう一つ、なるほどと感じる記述がありました。
よく「被災地にも笑いを」なんて言うヤツがいるけれど、今まさに苦しみの渦中にある人を笑いで励まそうなんてのは、戯れ言でしかない。
しっかりメシが食えて、安らかに眠れる場所があって、人間は初めて心から笑えるんだ。
悲しいけど、目の前に死がチラついてる時には、芸術や演芸なんてのはどうだっていいんだよ。
断薬の初期、離脱症状が酷ければ、大抵の人が、寝られない、食べられないで苦しみます。
それは「産みの苦しみ」で、良くなるために確実に通らなければいけないステップです。
そこを通らねば、次の段階である「笑い」は得られませんし、いきなりそこを求めても無理です。
生きるための収入はどうするの?、俺の人生はどうなるんだ?
心配はつきませんが、離脱症状に苦しむ初期段階では、「安心して寝られること」「安心して食べられること」
これを回復させることが第一優先の仕事です。
規則正しい生活がいいなんて医者は言いますが、個人的経験では、寝られる時に寝て、食べられる時に食べる。
体力を回復することにのみ、全力を尽くせばいいのです。
焦るなと言っても難しいですが、今、しなければならないことは何か?
できることを一つ一つ、こなしていきましょう。
被災でも、闘病でも、
苦しみを抱えて、生きる上で次のステップに進もうとするアクションは、実は一緒だと思います。
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