Responsibility of the chosen one
オリンピックも佳境に入り、連日熱戦が繰り広げられています。

2月15日時点で、銀メダル4つ、銅メダル3つ。
結果が全てではないと頭ではわかっていても、「メダル候補」とか「世界ランク1位」といった報道があると、特にそこに注目して観てしまいます。

もちろん素晴らしい成績だし、成績は選手が精いっぱい努力した結果にすぎませんから、
赤の他人が評価するものでもなんでもないわけなんですが・・・
「金メダルが期待できる」という前評判だと、惜しくも2位なんてことになると、どうも残念な気持ちになってしまいます。

Yahooニュースにもありましたが、こういったコラムがありました。
なぜ日本人選手は謝るのか?

最近でこそ、選手は自分の力で代表を勝ち取ったのだから、自分のために楽しもう、頑張ろうという世論が出てきたようにも思います。
しかし一昔前は、選手は日本の代表!、お国のために全力を尽くすのだといったような、ナショナリズム満載の世論も多かったですし、特に有力な競技では「負けてはいけない!」といったプレッシャーは尋常ではなかったでしょう。
古い話ですが、「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」という遺書を残して自殺した円谷幸吉氏の死は、代表選手のプレッシャーの大きさを世間に知らしめ、衝撃を与えることになりました。

先ほどのコラムにも書いてありましたが、期待通りの結果を出せなかったときにどう感じるかは、文化の違いによります。
日本の文化だと、期待にこたえられなかったことによって、他人に迷惑をかけたという思いが、「申し訳ない」という感情になるとしています。

結果に対して、自分が受け止めればいいだけのことであれば、きっと気楽なのでしょう。
でも代表となると、介在した、協力してくれた、同じ目標を目指したすべての人々に迷惑をかけたという思いになるのでしょう。

そういった寝る間も惜しんで努力されている選手の方を引き合いにするのはおこがましいのですが・・・
私が、夜中や起掛けにうなされるのは似たようなメンタルだと感じています。

あれもできていない、これもしなきゃいけない、でも身体も頭も動かない、どうすりゃいいんだ・・・

自分の評価が悪くなることは、これまで散々身に染みてきたことなので、諦めはついています。
評価や責任が、自分だけの範囲で治まるのなら、なにもストレスはないのです。

ただ・・・
体調が悪くなることで、もしくは能力的に無理ができなくて、結果としてできなかったことがあるとして、
それが他人に迷惑になる、期待にこたえられなくなる、そういった集団での責任が果たせないことに対する恐怖が大きなストレスになっています。
体調が良い時は何とも思わないのですが、「疲れてしまってもうこれ以上動けません」となって、他人に迷惑をかけてしまうことが怖くて仕方がないのです。

結果を出せなかった選手が謝罪するのを聞いて、もしくはそれを残念に感じている自分に気が付いて、
自分も「個ではなく集団に帰属する意識が強い」という呪縛に取りつかれているように感じてしまいます。
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