子供の教育で、褒めて伸ばすか叱って伸ばすかって、手段についてよく議論されています。
お互いの言い分はありますが、ひとまずそれは置いておくとして、
アドラー心理学では、どちらも間違いだと言っています。
誉め言葉やご褒美で、子供が言うことを聞くようになるということは、自分で考えて自分の意志で動いているわけではなく、
褒めたりご褒美がもらえないと行動しなくなる。
つまりご褒美がないと分かると、親が見ていないところでは行動しなくなります。
叱る場合でも一緒で、叱られないと無視をするという行動をとるようになります。
いや、そんなことはないぞ!
褒められて興味を持てば、子供は自ら動くようになる。
そうおっしゃる方もいるでしょう。
でもその例は、褒めたからということが因果関係にあるのではなく、
本人が何かのきっかけで興味を持つ、つまりこうした方が価値があるぞと「自ら気づく」ことが重要なわけです。
人間の行動の本質は結構単純で、自らが「正しい」「価値がある」「そうすべきである」と信じる方向にしか動きません。
人から指示されたことを、納得もせずに従うなんてことが続くわけがありません。
先日、MDAAという処方薬依存症の自助グループに参加させてもらったときに、何がきっかけでベンゾジアゼピンをやめようと思ったかという質問をされました。
実際にどうだったのかなって、過去を思い起こしていました。
私がベンゾジアゼピンをやめようと思ったきっかけは、じつは弾みみたいなものです。
当時、通院していたメンタルクリニックで、「調子がいいよ」と主治医に言ったら、薬を減らしますかということになったわけです。
今思えば非常に無知で無責任な医師だと思うのですが、ベンゾジアゼピンに関しては好きなように止めていいよと指導されました。
まあ、きっかけはどうでもいいわけです、軽い気持ちだし。
そこから当然のことながら、酷い離脱症状が出ますわね。
そこでいろいろな選択肢があったと思うのです。
①この機会だから完全に断薬する、ベンゾジアゼピンだけではなくほかの薬も止める
②ベンゾジアゼピンはやめるとして、症状を抑えるためにほかの薬で置き換える
③ベンゾジアゼピンを再服薬する
結局、人の選択ってのは、正しい間違いは別にして、何をどう気づいたかってことで決まります。
まず、ベンゾジアゼピンを断薬して酷い離脱症状が出た時点で、自らの身体が恐ろしく変えられていたことに気が付き、「これは薬ではなく毒だ!」と気が付いてしまいました。
正しい、間違いではありません、そう信じたのです。
だから③の選択肢はそこでなくなりました。
もともとは②の価値観が強かったんですよ。
昔から薬が好きでしたし、医療に対する期待ってのもありましたしね。
なんとか抗うつ剤や漢方薬といった違う薬で楽にならないか? そんなことばかり考えてました。
ではどこでそれが①に変わったか?
一つではないと思うのですが、私にとっては内海聡医師の書籍を読んだことが大きかったと思います。
減断薬に取り組まれている方で、内海聡医師を知らない方はほとんどいないと思います。
私は彼を全面的に信望しているわけではありません。
ただ、「医者も悪いが依存症になる本人も悪い、甘えを捨てて、精神医学に対する信用を捨てろ」という価値観に気が付かされるところがありました。
ずいぶんと葛藤はありましたが、こういう気持ちの変遷を経て断薬に至ったわけです。
結局断薬も、達成できるか継続できるかってのは、自らがどう気が付いてどう信じたかってことでしかないと思うんですね。
犯罪でもないんだし、一生飲み続けて何が悪いんだって人と、議論したところで結論は出ないでしょう。
今となっては、どちらが正しいなんてどうでもよいことのように思います。
そして、まだ症状が残っているとしても、その時にそういう選択をして良かったと満足しています。
お互いの言い分はありますが、ひとまずそれは置いておくとして、
アドラー心理学では、どちらも間違いだと言っています。
誉め言葉やご褒美で、子供が言うことを聞くようになるということは、自分で考えて自分の意志で動いているわけではなく、
褒めたりご褒美がもらえないと行動しなくなる。
つまりご褒美がないと分かると、親が見ていないところでは行動しなくなります。
叱る場合でも一緒で、叱られないと無視をするという行動をとるようになります。
いや、そんなことはないぞ!
褒められて興味を持てば、子供は自ら動くようになる。
そうおっしゃる方もいるでしょう。
でもその例は、褒めたからということが因果関係にあるのではなく、
本人が何かのきっかけで興味を持つ、つまりこうした方が価値があるぞと「自ら気づく」ことが重要なわけです。
人間の行動の本質は結構単純で、自らが「正しい」「価値がある」「そうすべきである」と信じる方向にしか動きません。
人から指示されたことを、納得もせずに従うなんてことが続くわけがありません。
先日、MDAAという処方薬依存症の自助グループに参加させてもらったときに、何がきっかけでベンゾジアゼピンをやめようと思ったかという質問をされました。
実際にどうだったのかなって、過去を思い起こしていました。
私がベンゾジアゼピンをやめようと思ったきっかけは、じつは弾みみたいなものです。
当時、通院していたメンタルクリニックで、「調子がいいよ」と主治医に言ったら、薬を減らしますかということになったわけです。
今思えば非常に無知で無責任な医師だと思うのですが、ベンゾジアゼピンに関しては好きなように止めていいよと指導されました。
まあ、きっかけはどうでもいいわけです、軽い気持ちだし。
そこから当然のことながら、酷い離脱症状が出ますわね。
そこでいろいろな選択肢があったと思うのです。
①この機会だから完全に断薬する、ベンゾジアゼピンだけではなくほかの薬も止める
②ベンゾジアゼピンはやめるとして、症状を抑えるためにほかの薬で置き換える
③ベンゾジアゼピンを再服薬する
結局、人の選択ってのは、正しい間違いは別にして、何をどう気づいたかってことで決まります。
まず、ベンゾジアゼピンを断薬して酷い離脱症状が出た時点で、自らの身体が恐ろしく変えられていたことに気が付き、「これは薬ではなく毒だ!」と気が付いてしまいました。
正しい、間違いではありません、そう信じたのです。
だから③の選択肢はそこでなくなりました。
もともとは②の価値観が強かったんですよ。
昔から薬が好きでしたし、医療に対する期待ってのもありましたしね。
なんとか抗うつ剤や漢方薬といった違う薬で楽にならないか? そんなことばかり考えてました。
ではどこでそれが①に変わったか?
一つではないと思うのですが、私にとっては内海聡医師の書籍を読んだことが大きかったと思います。
減断薬に取り組まれている方で、内海聡医師を知らない方はほとんどいないと思います。
私は彼を全面的に信望しているわけではありません。
ただ、「医者も悪いが依存症になる本人も悪い、甘えを捨てて、精神医学に対する信用を捨てろ」という価値観に気が付かされるところがありました。
ずいぶんと葛藤はありましたが、こういう気持ちの変遷を経て断薬に至ったわけです。
結局断薬も、達成できるか継続できるかってのは、自らがどう気が付いてどう信じたかってことでしかないと思うんですね。
犯罪でもないんだし、一生飲み続けて何が悪いんだって人と、議論したところで結論は出ないでしょう。
今となっては、どちらが正しいなんてどうでもよいことのように思います。
そして、まだ症状が残っているとしても、その時にそういう選択をして良かったと満足しています。
スポンサーサイト
Comment 0